RAEラエ、世界に向けてアルゼンチン

ローマ法王フランシスコ独占インタビュー

「戦争は必要とされる全人類間の対話を阻止する大悪である」

バチカンでは目まぐるしい日々が過ぎていた。現代の様々な課題に対応できるように、今まで眠っていた法王庁全体を揺りさぶった新しい法王の出現以降のこの10年以来の日々と同様に。
法王によるあらゆる事態への答えやイニシアチブは、羅針盤無しで動き続ける世界を考慮しながら発されるだけではなく、現状を改善し、新たな未来構築のため文明間の危機を解消するアクションも含まれている。
現在行われている教会会議-教会内部の声に耳を傾けともに考える場-で法王フランシスコは、人々を包み込み神をほめたたえるイエズスの視点に基づき、教会の形骸化、世界に背を向け、過去を見る教会、あいまいな立場で世間の流行に流される、疲れ切って中に閉じこもる教会などの誘惑に惑わされないよう対処している。
国の本当の価値が現れることを恐れてはいけない、と法王は語る。

9月末の午後、地球上最も偉大な宗教、社会そして倫理的指導者に再びインタビューする機会に恵まれた。語らいの場はサンタ・マルタ、世界に向けての警告、解決策、思考など、法王の全人類に対する温かで、変革を可能とする視線を伺うことができる。
語りの半ばで、フランシスコ法王は「対話は国家間だけではなく、全人類の間でもたれるべきである。通信技術は大発展を成し遂げ、すべてが簡素化されている。だから私は全人類間の対話、調和と出会いについて話すのだ。そしてこれらをすべて阻止しようとするのが戦争だ。
第2次世界大戦後、地球上のあらゆるところで戦争が現在まで続いている。私達は部分ごと、パーツごとの世界大戦に直面しているというのはこういうことだ。
“私たちは部分ごと、パーツごとの世界大戦に直面している”
法王の言葉は真摯に受け止めるべきである、10月7日土曜日、イスラエルとハマスとの間での暴力は劇的にエスカレートしてしまった。

「はい、そうです。アルゼンチンですね。」保留中となっているこれからの海外訪問先について訊かれた際、瞬時に出た回答。
8日日曜日のアンジェラスの祈りの後、聖地に喪に服すことを余儀なくした、争いの激化について、フランシスコ法王は語った「被害者の親族の方々の近くにることを感じる。祈りを捧げます。また恐怖と焦燥感に怯えている方がにも、祈りを捧げます。攻撃と武器、一刻も早く全面停止を!テロと戦争は何の解決にもならない。何の罪もなき人々に死と苦しみを与えるだけだ。」
その僅か72時間後、バチカンで毎週1回行われるローマ法王謁見でフランシスコ法王は和平を強く求めるメッセージを発した。「攻撃を受けた側には防衛の権利がある。しかし、ガザ地区に住んでいるパレスチナ人の人々は追い詰められていることで、胸が痛む。何の罪もない人々が数多く命を落としている。テロと過激派主義はイスラエルとパレスチナの問題解決には何の役にも立たない。増悪、暴力と復讐の思いを増長させるだけで、人々に苦しみを与えるだけだ。」
“アイデンティティーの認識は対話成立のため重要である”

 

 

 

 

 

そして日曜日15日のアンジェラスの祈りの後、和平へのメッセージを繰り返す。そしてガザ地区における人道支援権利が尊重されることを訴える。ガザ地区での人道回路の確保と支援が全住民に届くことが最優先事項であるとのべた。

「戦争は常に敗北を意味する。」9月末の午後、サンタ・マルタで86歳のフランシスコ法王が発した1節だ。これからの海外訪問先について問われ、民衆と共に歩み続ける喜びがあふれ出た際、平和を心から祈る法王の思いだ。

海外訪問とアルゼンチン

-フランシスコ法王、まだ訪れていない重要な訪問先はありますか?

-はい、そうですね。アルゼンチンですね。

-あ、そうですね。

-行きたいですね…距離的にもっと遠いのは、パプアニューギニアです。

アルゼンチンに行くのであれば、リオ・ガジェーゴス経由で、南極に渡り、メルボーンで降りて、ニュージーランドとオーストラリアも訪問できるとのアドバイスももらいました。ちょっと長い旅程ですが。

 

渡航プランはどのように立てられんですか?訪問先はどのように選ばれるんですか?

➖招待はたくさん頂きます。可能な渡航先のリストアップはいつもありますが、その時の事情により、瞬時に決定する場合もあります、モンゴルのように。ヨーロッパ圏内では予定が緻密に立てられます、ハンガリーのように。ケースバイケースですね。最初に招待があり、そして直感ですね。自動的なものではなく、1つ1つの決定事項は、それぞれ唯一のものです。

 

危機と救世主主義

 

➖訪問先では様々なテーマが取り上げられると思います。いつも現地の人々とコンタクトをとられています。社会変革のためには権力者だけではなく、民衆一人一人の意識改革が必要とされると法王は説かれます。過激右翼派の出現は政治に対する市民の不満や挫折感を象徴するものだと思われ、それが選挙投票際に現れます。これらの危機は一過性のものなのか、それとも長引くものなんでしょうか。ひっくり返すことはできるのでしょうか。

危機と言う言葉は内部に動きがある感じなので好きな言葉です。危機からは飛び出るんです。リンスされてつるんと出るものではありません。一人だけで飛び出すことはできません。一人で飛び出そうとすると、出口への道のりが迷路になってしまい、堂々巡りを繰り返すことになるんです。

危機は人間を成長させる。個人として、家族として、1国家として、1分明として。危機を解決したならば、成長した証です。

 

”危機からは飛び出るんです。一人だけではありません”

 

問題を抱え込んで自分の中に閉じこもってしまう人々の事が心配です。少年・少女には危機と付き合ってゆくかを教えてあげなければいけない。危機を解決する、大人の証です。私たちも若かった時がある、經験0だった時。若い時は奇跡を求めて、1人の救世主が現れて助け出される、それを夢見る時もある。

救世主は、唯一の存在で、1人で全ての人々を救われました。彼を名乗る人々は、救世主の名前を被ったピエロだ。誰も争い、戦さの解決を確約することはできない。

例えばどうしていいのか分からない、ある国で政治危機があったとする、ヨーロッパではよくありますよね。

助けを救世主に求めるのか。ノーです。問題がどこにあるのか、見抜き、解決する。紛争をどのように対処していくのか。知恵ですね。紛争なくして前進はありません。

 

 

-人類には何が不足で、何が余っているのでしょうか?

-人類には人間味にあふれた主役が不足しています。危機対応能力と自国の文化を開花させるタレントが足りない。国の本当の価値が現れることを恐れてはいけない。危機は水先案内人のようなものです。そして目に見えない紛争、何かに蓋され、目に見えない問題、紛争はハーメルンの笛吹き男のように、人々を迷わせる。私は愛想がいい、好印象のハーメルンの笛吹き男を恐れる。蛇の姿をしていたら、危険だとすぐわかるが、人を惑わせるハーメルンの笛吹き男はほっておいたら人々は溺れてしまいますよね。笛のメロディーに踊らされ、救いを求めても、すぐに解決できるものではない。やっぱり危機は覚悟を持って臨み、乗り越える。そして飛びだす。これですね。

個人主義、無関心は有り余っているんでしょうか?

‐無関心は恐れるべきです。笛吹き男の後を追う民衆は溺れ死んでゆく。軍事政権は笛吹き、幻想より始まったんです。そしてその後、みんな嘆き悲しむんです。あー溺れちゃった、と。

ハーメルンの笛吹き男のイメージは好きです。ネズミが溺れるイメージもあるんですけど。

 

唯一のアイデンティティー、唯一の思想に走ってしまうリスクは何ですか?

・人間の美しさを奪ってしまうことです。唯一思想は人間の美しさを埋めてしまう。人間の美しさは頭、ハート、と手の3次元の言語、事実に基づいて成り立っている、それが人間のハーモニーです。そのどれかの1つでも欠如した場合、バランスは崩れ、唯一の思想に走ってしまう。人類を裏切る行為です。

 

法王の生活では質素が根付いていますが、それは確信を持っての物なのか、メッセージなんでしょうか?

‐質素というコンセプトだけでは存在しません。存在するのは質素な女性と男性です。仕事しながら勉強や生活をしている人々です。

安易なことを求める文化、賄賂や逃げ場を探す文化、そんな場所では質素な生活、倹約の重要性など語ることは大変難しい。仕事を通じて質素な生活、倹約の重要性は学べる。汗をかいて糧を得ることで倹約、質素な生活が実感できる。労働は人間に尊厳を与える。

尊厳が欠如すると人間は怠慢になり、刹那的な日々に浸ることになる。

 

労働の価値

  • 法王は労働を尊重する文化を推進されますが、格差が顕著となっている現代、大勢の人々が職につけない中、労働とは何でしょうか?

同じ点に戻ります、すべての労働は人間に尊厳を与えます。その対極にあるものは搾取です。人間を搾取すると言うことは、重罪のうちの1つです。世界の搾取の現状のデータ手元にありますが、大変厳しいものです。

雇用主は社会保障サービスを労働者の権利として、遵守しなけければならない。労働とは権利を伴うものです。でなければ、奴隷です。

 

-雇用創出や生産拡大のための1番の足枷は労働法だという風潮があります。そして既得権利の抹消を掲げる各国のリーダーもいます。

日雇い労働者達は奴隷化されてゆき、雇用主は介錯人になってしまいます。

介錯人とは命を奪うだけではなく、人間を搾取するものでもあります。そのことをちゃんと理解していかなければいけません。法王は共産主義者という人達もいますが、全然違います。法王は聖書を胸に神の御言葉を伝えているだけです。

すでに旧約聖書には、未亡人、遺児や異邦人を守りなさいというヘブライ法について記されています。究極な事態における社会の枠組みを示唆しています。

非正規雇用はその人の未来を左右し、奴隷化へと流してゆき、労働を蝕んでいくのです。人間に尊厳を与える代わりに人を奴隷化してゆく。これには注意していかなければなりません。

私は共産主義者ではありません。法王は神の御言葉に従うだけです。

技術とAI

-Aiなどスピードアップする技術革新を前に人間を中心に据える視点で物事を見ていくことは可能でしょうか?

スピードアップという言葉は好きです。スピードアップで心配なのは、物事に順応してゆく時間が無くなっていくということです。産業革命から1950年代まで見てみると、その時代、産業プロセスはスピードアップはなく、コントロールがあり、補助の制度もありました。スピードアップに飲み込まれると、慣らしていく時間も無くなり、奴隷化が進むわけです。誰か、または何かの仕事の奴隷になるより、危険なのはある文化の奴隷に成り下がってしまうことです。

 

文化発展のパラメーターはAIなど、文化にどれだけ順応し、対処し、律することができるかだと思います。人間には創造の天性があり、それを自身から諦めてはならない。

 

戦争と安全

-戦争と紛争について、法王は全世界の安全という新しいコンセプトを提唱されていますが、どのようなもの何でしょうか?

全世界の安全無くして、一国の、1つのパーツだけの安全構築はありえません。安全の全世界化、またはその途上の安全なくして1国の社会の安全というものは成り立ちません。通話技術の進化も甚だしい現代、対話も同じく、全世界に向けてあるべきで、ナショナリズム調であってはなりません。だからこそ、全世界へ向けての対話、全世界間のハーモニー、全世界間の出会いが必要とされるんです。そしてこれらの対極にあるのが戦争です。

-戦争を招く、または後押しする状況とは何でしょうか?

戦争の元凶の1つは搾取です。もう1つは領土のコントロールです。文化的要因で始まったかのような戦争が、誰が領土をコントールするかで、半永久的に続いてしまっている戦争もあります。

例えば、ミャンマーの例です。何年間も長い間、イスラム系のロヒンギャ族は上級の人類という仮面を被ったエリート集団により、迫害を受け苦しんでいます。

また独裁政権も戦争を煽動する要因だと思います。

 

-宗教観や政治観などの差異を乗り越えて良識の絆を深めることが世界平和や世界の安全の構築につながるんでしょうか?

-そうです。でも自分のアイデンティティーを失わないという条件付きであれば。自分のアイデンティティーを認識している2人が出会えば、対話が成立し、合意に達し、発展に向けての歩みを始めることが可能となります。しかし、自身のアイデンテティーが確立していない場合、他人を尊重することができませんし、対話も成り立ちません。相手のことを嘲笑い、自分の無知を隠すため嘘もつくようになります。

 

教会の変革

-現在2023年度教会会議が進行中で法王は時代は変革していると仰っています。教会はそんな現状にどのように反応し、応えていくべきなんでしょうか?どのような教会が必要とされるのでしょうか?

第2回バチカン公会議、ヨハネ18世の時代より、教会は変革を成し遂げねばいけないという明確な考えがありました。パウロ6世はこの考えを受け継ぎ、現在に至ります。変革は流行に左右されるようなものでなく、成長し、人間の尊厳にプラスに働くものであるべきです。そしてここにも神学の前進がありました。聖書の新見解も調和を持って行われて行きました。調和を持って進行するか、分裂するのか。分裂は良いことではありません。

私は樹木とその根についてのイラストを引用することが好きです。木の根は地中の水気を吸い取り、幹を通じて葉に届けます。このプロセスを無視すると、全てが渇いてしまいます。人間で言えば、伝統を失うということです。

全てのものは、伝統に基づき、家族に基づき、生まれた場所の文化に基づき、政治文化に基づきます。

-伝統と発展は補足し合うものと語られています。

-発展は必要なもので、教会はその中に組み込まれていかなければなりません。ギリシャの思想家プブリウス・テレンティウス・アフェル「私は人間である。人間に関わることなら何でも自分に無縁であるとは思わない」と述べています。

教会は人間性を抱き締めます。神は人間となって現れた、神学のセオリーとしてではなく。

発展はあくまでも人類の調和の証としてあります。

-60年代オランダ人は科学技術の急激な進展を危惧し、科学技術の異常な加速化に警鐘を鳴らした。教会はこの加速化について注意を払わなければいけません。

 

-変革と自身の要を失わないよう、ピンと張り詰めるその状態とどのように落合をつけられましたか?

対話と新しい挑戦に重点を置いて教会はここまで様々な変革を成し遂げてきました。

例えば法王の生活について。今回のようなインタビューを法王が受けるということは、第1回公会議末あたりまでは、あまり一般的ではありませんでした。この1世紀半で物事は大変変わりました。

4世紀の神学者ビセンテ・デ・レリンは教会の変革には3つの条件があるとして、変革が確立されること、成長すること、そして時と共に昇華することを挙げています。

教会は変革を必要としている、公会議以降現在まで数多くの変換を成し遂げてきた。

教会の教義は変わりません、しかし成長し、発展し、昇華します、樹木の樹液のように。

この道から離れる人々は、一歩さがり、自分の中に閉じこもってしまうのです。教会はアイデンティティーと共に、教会が直面してゆく新たな挑戦と共に、変革を成し遂げてゆくのです。主に牧師の活動の変革になると思われます。

 

神との絆

現世界における神の名代として、この時代にその役割を果たしていくのは、難題ですか?

‐ちょっと教義に反することを言います。皆さん1人1人が神の名代なんです。神を信ずるものすべてがその実証を立てなければいけない。その意味において、全ての人々が神の名代なんです。法王は優待遇の神の名代なんです。教会の真実、牧師の真実について語っていかなければなりません。

 

法王は神とはどのような関係を築いていらっしゃるんですか?

‐神に訊いてください (上を向いて笑う)。幼少時からの情けの心を今も持ち続けています。私の祖母が祈り方を教えてくれました。情けの心をもって行うシンプルな祈りです、祈って助けを求める、アルゼンチンで言われる、「炭焼き職人の信心」です。私はシンプルに祈ります。幼少期から今まで同じ祈りで続いています。宗教に対する認識は年とともに深まりました。しかし神への祈る姿勢は変わりません。シンプルなものです。祈りを難しくすることはありません。時々(上を見る)「あなたがどうにかしてください。私はこれ以上できません」と神に語りかけます。そして聖母マリア様やほかの聖人に助けをもとめるんです。そして決断を下さなけばならない時には、まずお願いして、神からの光を頼みます。

神は良き友人です。配慮もあるし、私のことを、ほかの人々と同様に大切にしてくれます。

一人一人どのように大切にするか、一人ごとそれぞれのスタイルがあるんですよ。それにあった大切なしかた。それに気づくことができれば、素敵です。

 

神に対して怒ることはないんですか?

神に対してではなく、ほかの人たちに怒ります。神に抗議することはあります、でもいつも待ってくれているのを感じます。何か失敗したり、正当な理由なく、ほかの人に対して怒った時など。それに対して神は私を責めることは絶対ありません。神との対話で、責められるというのは、優しく撫でられることと同じです。今日、預言者ホセアス書第11章を読みました。そこに神の優しい愛撫についてあります。神が抱いている羊を撫でる、それと同じような愛が神が私たちに与えられる愛だと。

神の3つの特質は、近さ、慈悲と優しさです。神は私たちの近くにいる、神は慈悲深い、神は全てを許す。そして、忍耐強く私たちを見守ってくださる。そして神は優しい、どんな逆境でも神は優しい。これが私の実体験です。

 

微笑み衛生的価値

法王は微笑まられる、笑われる、ユーモアのセンスを持っておられる。どんなことが楽しいですか?面白いですか?ユーモアのセンスは衛生保証書をもっているようなものです。

‐もうかれこれ 40年前以上から、ユーモアのセンス持てるよう祈っています。聖人トマス・モアのユーモアをと。その祈りは使徒的勧告「GAUDETE ET EXSULTATE(喜びなさい、大いに喜びなさい)-現代世界における聖性への呼びかけ」 ノート101に記しました。笑うことが可能になるよう、何事にも面白い側面があること、人生ではいつも微笑むことができることなどが書かれています。祈りの冒頭はいいです、こうあります 「神よ消化好調にしたまえ、消化する食べ物をあたえたまえ」冒頭から笑わせるんです。ユーモアは人間性の証です。ユーモアがない人はつまんないです。。

すごくつまんないです。

その人自身もつまらないと思います。私も僧侶時代、あなたも鏡を見て、自分のことを笑いなさいというアドバイスをしたこともあります。なかなか難しいんですよ、ユーモアがないと。教義的なことじゃないんです、生活の知恵と言うんですか。

 

人間には恐怖がつきものだと思いますが、法王はいつも皆を包む平和に満ちたメッセージを発せられますが、時々恐怖感にとらえられることはないんですか?

はい、もちろん。私個人の1つでもの過ちが大勢の人を傷つけることがありうるからです。

ですので、決断と下すときは時に慎重に、時間と共に熟成するのを待つ場合もありますし、時には教会会議にかけ、教会全体としての答えを出す時もあります。

 

いつかアルゼンチン人の法王が出てくると考えられたことはありますか?

‐ピロニオ枢機卿(編集者注:エドゥアルド・フランシスコカトリック教会大司教のこと)の時代、アルゼンチン・カトリック教会のある一派は閉鎖的で形骸主義だと悪い評判がたち、人々の口に上りました。そして彼が法王に任命されるのならば、教会が受けるダメージは大きいとまで言われました。彼が教会青年大会を立ち上げた人物です。教会に多大な貢献を成し遂げた人物です。ある1時期、彼が法王になるのではと言われていました。アルゼンチン人の法王といえばピロニオ枢機卿でした。しかしその前に、ガンに倒れ亡くなられました。

いまピロニオ枢機卿の奇跡について研究が進んでおり、年末には福者として認定されるでしょう。

 

希望の預言者として、希望を膨らませるにはどうしたらいいんでしょうか?

希望とは毎日当たり前にあり、一番注意を払わない美徳です。信心、慈善活動、愛についていつも話します。希望はこれらが創られる場所、いわゆるキッチンです。お台所だから、あまりに日常的過ぎで注意を払いません。希望をなくしてはならないし、育んでいかなければなりません。希望は豊穣です。ある詩人は希望のことを質素が美徳と呼びました。希望なくして生きては行けない。一日一日の希望をなくしてしまったら、アイデンティティーをも失ってしまいます。希望によって生かされているということに気付きません。神学的にみる希望は質素なもですが、日常生活に彩りをあたえます。明日はもっと良いことがあるかもしれないと思うのは現実逃避でありません。他のものです。

 

この頃アルゼンチンで出回っている「ローマ法王フランシスコ、人間の尊厳の預言者」という法王についてのコメントがすごく好きです。今日は本当にありがとうございました。

私のことを祈ってください。祈ってください、お願いします。反旗を翻さないでくださいね。